死刑廃止論者にもいろいろな潮流があるようです。
よくあるのは、刑を執行するのが「国家」であって、その国家というものは基本的に100%は信用ならんものだという考え方があって、それが「罰」ではなくて、その存在そのものを抹殺する手段を行使することはいかんのではないかという考え方ですね。
背景には、死刑というのは「罰」ではないのでないかという考え方があります。
つまり「罰」というのはその人の存在を認めることを前提に矯正目的で与えるもので、そういう意味で、死刑というのは「罰」ではないわけです。単なる抹殺なわけです。
中山元というフーコーの研究者は次のように書いています。
かつては君主の権力を傷つけた者が処刑された。
しかし近代の社会においては死刑を維持するためには、その死刑の対象となるべき者が、
社会の維持と安寧のために生存すべきでないことを訴える必要がある。
犯人が異常であり、矯正不可能であることを示すことによって、
社会にとって「生物学的な危険であること」を示すことによって、
犯罪者を社会から抹消することが認められるのである。
フーコーはこれを、「死なせるか、生きるままにしておくという古い権力に代わって、
生きさせるか、死の中に排棄するという権力が現れた」と要約している。
この権力をフーコーは、生の権力(バイオ・パワー)と名づける。
ここでフーコーが、『監視と処罰』における規律社会に次いで、
新しい管理する社会の概念を提示していることが注目される。
◇バイオ・ポリテイクス フーコー論二八章
以上の認識について、死刑との関係でうまくまとめている次のブログをご参照あれ。
ミシェル・フーコーの刑罰システム概論
死刑制度を可能にするのも、殺人には殺人をというこの応報原理の中だけなのである。
治安契約をもとに人々は国家に危険をなくすことを求める。
たとえ心遣いとしての国家の介入が、危険、秩序を乱すという理由で、
ある人たちを抹消する、あるいは死に晒すものであるとしても。
「あの人は危険です。」「あそこにいるのは危ない人たちです。」
「早く監獄へ入れてしまってください、そこからもう出さないでください。」
「死刑にしてください、抹消してください、でなければ私たちの生が危険に晒されてしまいます。」
「安全な社会を保証してください…。」
もちろんフーコーは、死刑廃止議論のような重要ではあるが、狭いフィールドにとどまりかねない議論をしていたわけではない。むしろ、死刑を求めるバックグラウンドに、死刑を必要とするような人を生み出すという、メビウスの帯のようなトリックに懐疑を投げかけるのがフーコーなのではある。
以上、メモがわりに。
【参考】大島渚「絞死刑」
コメント