いきなりですが、日本軍の描き方をめぐってヘンに政治的なかんぐりで、この映画を非難する意見について。
日本軍が隠喩である「嵐」を現実化したものであるのは明らかで、それが通り過ぎたあとに、ひとつの変転が訪れるきっかけになるということは映画の中で繰り返し言及されている。
そして、その嵐のあとに、ひとつの大団円に近い結末が示されているのであるのだから、むしろそのカタルシスを呼び込んだ善悪を超えた存在だったと理解していいのではないか。
ドロワー(ようするにカウボーイね)の相棒の黒人を撃ち殺すシーンが残虐な日本兵のステレオタイプだったとしても、その光景は、悪漢だらけのオーストラリアの人々と比べたら、まだまともにさえ感じる。
ようするに、太平洋戦争のおかげでアジアの植民地は独立を獲得できたという、大東亜戦争はアジアの解放戦争だった、という話をなぞっているわけですね。
それなら、そっち方面の話が好きな人にも受けがいいんじゃないでしょうか?ってハナシ。
以上はおいておくとして、まあ映画は微妙はだったのは間違いないです。
アポリジニの抑圧の背景と人種差別の歴史を舞台にしながら、それを嵐(日本軍)によるきっかけで変化する仕掛け。それを導くのが、不思議なアポリジニのおじいちゃんなのだが、この描き方が単に観光客相手のアポリジニの儀式を延々繰り返す現実感のないもの。
これ、逆にアポリジニの人たちは怒るんじゃね?っていうほどの不思議キャラ。
オーストラリアの暗黒部がこんなきっかけで変わっていくのなら、本当にあの戦争は解放戦争だったということだよね。実際はそんなわけないのに。
これにはオーストラリアの人もどうかと思うのではないかと。
長い映画なので、だいたい前半部分のクライマックスまでは楽しかった。
あそこで止めておいてよい映画なんじゃないかと。ヘタに歴史に触ったバズ・ラーマン、しくじったのではないかと。
まあ、死んだダンナ目の前にしてから、あの展開なら、物語としてもどうかと思うけれども。結局、悪女ってことですかね?などと茶化したくもなる。
唯一の救いは、ニコール・キッドマンの役者ぶり。コミカルと美しさを見事に並列させるあの演技は彼女ならでは。
かたや、ヒュー・ジャックマンのマッチョボディは、あれは女性層にむけてはいいものなんだろうけど、労働やスポーツでつくられた筋肉と体型と、ボディビルでつくられた違いを知っている人なら、役柄的な違和感を感じてしまうだけ。
ニコール・キッドマン好きだから、見に来て損はなかったけど、あんまし人はお勧めできません。きっと、そういう動機がある人だけが愛せる映画でしょう。
FWF評価: ☆☆
この映画を誰が愛せばいいのだろうか / 「オーストラリア」 バズ・ラーマン 【映画】
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