デオドラントしきれない現代 /「パレード」 行定勲

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◇「パレード」公式サイト
人と人は決してわかりあうことが出来ない。
なぜなら、人間を意味づけようとする大きな物語なんてウソなのだから。
緯度も経度も単なるウソの物語で、せいぜい単なる指標にすぎないのなら、自分は地球上のここにいながらも、場所を特定できないから、あたかも浮遊しているようなものだ。
そういう考え方を、この映画の登場人物のひとりは「ユニバース」に対応する概念として話している。ひとつの見方、ひとつの解釈で宇宙は出来ているというのだが、実は宇宙はひとりひとりの心の中にしかない。だから、本当は宇宙は単一(ユニ)ではなくて、複数(マルチ)なのだ。それを「マルチバース」と呼ぶ。
人がわかりあえないものだとしても、小さな物語は積み重ねていかなければならない。
恋愛や仕事や家族や友人、そういったものは延々と続けられていく。
それを、それぞれのそれぞれがもった世界(マルチバース)として理解していけば、そんなに世界は難しいものではない。
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登場人物がルームシェアで住む不思議なマンションの生活を、その一人は「インターネットの掲示板やチャット」のようなものと言う。
語られることだけで楽しくやれればいい。清潔でデオドラントな世界は、クリックひとつで参加することもできるし離脱することもできる。
しかし、ある男娼の闖入者の少年は、そんな場所を「うわべだけの世界」と一刀両断する。
そしてこの危なげで闇の中の世界に蠢いている存在の少年が、この世界に侵入してときに、次第に何かを暴きたてることになる。

東京の世田谷のマンションの一室のルームシェアの物語が、男娼の少年の存在をきっかけにゆっくりとポジフィルムのように反転していき、やがて歪んだ性や突発する暴力衝動が、噴出しはじめるのが、この映画の面白さだ。
しかも、静謐に淡々と始まる物語のテンションを全く動じさせないまま映像はひたすら訥々と語っていくのみ。
抑えきったところでなだれ込むのラストの出来すぎ感や、演技までもがそれぞれ朴訥なのはこの監督ならではのつくりこみかただろうから、そういうものとして受け止めよう。
コミュニケーションとディスコミュニケーションが実は両面のもので、知ることを拒否しながら知りあうという不思議な関係が現代的なものとして語られる映画ならば、むしろそのぎこちなさは演出として理解する。
それにしても、不思議な持続力のある物語である。久々に映画を観て原作が気になった体験。国際批評家連盟賞はダテではなし。

FWF評価:☆☆☆☆★

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