フロイト的抑圧の光景 / 「尼僧ヨアンナ」 イェジー・カヴァレロヴィチ

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フロイトそのまんまに、まずは書いていこう。
もともと人間の「性」は抑圧されている。
そうしないと、秩序はうまく保たれないからだ。宗教や法や政治というのは、そのような「性」を封じ込めて、それで社会全体がうまく機能するようにするためのものといってよい。
そういう抑圧のシステムの中では、男性の側から一方的にみると、この映画の冒頭の下卑た宿屋の主人のセリフにあるとおり、女性というのは聖女であると同時に淫らな存在である。
社会的な禁忌を破るものはすなわち「悪」であるとするならば、そのような性的な存在である人というものは、映画の中でカトリックの僧侶の主人公と問答をするユダヤ教の僧侶の認識とおり、もともと悪を秘めているし、そもそもそれが前提となって世界は出来あがっているということになる。
さらに、性的な抑圧は、時にそれがうまく機能しないと、人間の精神に破綻をきたすこともある。フロイトは単刀直入に、精神病の病理を性に結びつけて考えた。
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この映画は、カトリックの修道院が悪魔に獲りつかれているため、その修道院に派遣されてきた僧侶の破滅の物語。
悪魔につかれた尼僧ヨアンナに、悪魔払いの様々な努力をするが、そのうちに僧侶自体がその悪魔に取り付かれていくという筋書きなのだが、映画のテーマは、性的存在である人間の悲劇といったところかと思う。
映画の観方は様々でよいと思うが、共産主義体制の抑圧の風刺うんぬんはちょっとピントがずれていると思う。この映画の取り扱っているのは、もう少し人間の禁忌の起源に触れるようなものであろう。
単純といえば、単純。
宗教と性・・・そのまんまフロイトのテーマである。
全体として、荒涼としたポーランドの風景に、精神の破綻を来たした女性の悪魔劇が延々と続いていく。そして、性的なものから隔絶した存在であるべき僧侶が、尼僧との対峙を通じて、人間の暗い性の世界に落ち込んでいく様を、完璧なカメラワークと清みかえったモノトーンの画面の中でゆっくりとゆっくりと描写していく。
形而上学的な問答のやりとりは時に退屈であるものの、それでも緊密な描写が魅力的な映画。
悪魔に憑かれる、すなわち精神に破綻を来たした尼僧たちが、躍動する女性としてむしろ魅力的にみえるのは自分だけではないはず。
それはこの映画の監督の狙いだったと思う。
1963年ポーランド映画。
池袋新文芸坐にて、同じくポーランド映画「パサジェルカ」との二本立てにて。
ちなみに、この「尼僧・・・」で、修道院を抜けて男に遊ばれる結果となる尼僧役は、アンナ・チェピェレフスカ。「パサジェルカ」では、ユダヤ人女性役にて主要な役回りで出ています。

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