『ブレア時代のイギリス』

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(初出2007年10月22日)
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イギリスでは新自由主義的な転換が最も早く行われたがゆえに、新自由主義の限界もいち早く明らかになった。新自由主義的な改革とは玉葱の皮むきのようなものであり、「官から民へ」を推し進めた終着点で、政府が何をするのかについては何の構想もない。新自由主義はその意味で政治の否定なのである。

ブレア時代のイギリス 山口二郎 







イギリスは二大政党制の国であるが、この十年は労働党の政権が続いている。

ところで、労働党政権を誕生させ、戦後最長の同党の政権を率いたトニー・ブレアは、いろんな意味で、小泉元首相と似ている。
党内改革を大胆に実行する手管。世論の風を一手に引き受けるメディア戦略。
ブレアにはスピンドクター(情報操作の専門家)を活用する手法(飯島秘書官の存在が非常に似ている)。

(ブレアのマスコミ戦略や情報戦略の内幕については「仁義なき英国タブロイド伝説 山本浩
」が面白く取り上げていて興味深い内容となっている)

そしてさらに何よりも似ているのは、個人的で人格的な魅力を最大限に発揮した強いリーダーシップスタイルである。これが世論を味方にし、改革を可能にした秘密である。



しかし、もちろんブレアと小泉は政治家として目指したところは全く違う。
さらに政治的背景として、もっとも違うのは、ブレアがサッチャリズムという新自由主義的な政策が綻びを見せ、全く予想したとおりに限界を迎えた後に現れたことだ。

ブレアは、新自由主義の目論見と福祉国家のコンセプトをなんとかバランスよく調合し、新しいイギリスの指針を処方したのである。すなわち「第三の道」である。

小泉は新自由主義の入り口を提示したに過ぎない。







イギリスは第二次世界大戦後、すぐに労働党政権となり、「ゆりかごから墓場まで」と言われる福祉国家政策を取り出した。

公営住宅、鉄道の国有化、社会保障制度の推進、医療費の無料化などなど。社会民主主義的な政策は、その後も70年代のサッチャーの時代まで引き継がれる。


これが否定されるのはサッチャーの時代である。

もともと「新自由主義」と呼ばれる政策は、「サッチャリズム」という名の下に始まった。
小さな政府による、市場経済を前提とした民営化、財政支出によるケインズ流の財政政策の放棄など。
70年代には、イギリスは没落していたのだ。「イギリス病」は、競争力を失った企業と怠惰な労働者を生み出した福祉国家政策が元凶とされていた。



本エントリの「ブレア時代のイギリス」の著者は、森嶋通夫著「サッチャー時代のイギリス―その政治、経済、教育」の続編として読まれるべき作品だ。その「サッチャー時代のイギリス」の作者は、、このサッチャーによる利潤原理による市場の見えざる力を社会に、より大胆に導入する手法を、「逆シュンペーター過程」と呼んでいる。

シュンペーターは、資本主義は放っておけば、資本の独占により「社会主義化/全体主義化」せざるを得ないというマルクスとは違ったスタンスのアプローチで、資本主義がこともあろうに「社会主義化」して自滅すると結論づけた。資本主義は癌で死ぬのではなく、ノイローゼで死ぬというわけである。これは、主に変化を失った社会の中で、民主主義的な仕組みをとらざるを得ない資本主義の市場原理は、かえって経済的な勝者に活力を失わさせていくという逆説的な論である。

もっともサッチャーはシュンペーターを本当に意識していたのかもわからないし、むしろ当時すでに気鋭の経営学者となっていたP.F.ドラッガーの影響のほうが強かったかも知れない。もちろん、サッチャー自身は当の本人に軽蔑されていたというハイエクの影響をもちろん忘れることはできない。

なにはともあれ、資抗するサッチャーは、「ビクトリア朝時代に帰れ」とのスローガンで、資本の活発な動きを促進するために、様々な手立てをとり始めた。
そして、利潤原理で勝者と敗者が現れることは当たりまえのこととして受け止め、「くやしかったら、がんばりなさい」という論理を押し立てた。

その結果、民営化、規制緩和、減税、これらが進み、財政削減による小さな政府へと展開される一方、イギリスでは失業者は増えていき、社会的不満は鬱屈していった。
その一方で海外からの投資は増え、製造業から金融をはじめとするサービス業へとイギリスの産業構造は劇的に変化している。現在のイギリス金融市場の活性化はここがひとつのターニングポイントとなっていることはいうまでもない。



サッチャーからメージャーに変わっても、新自由主義的政策を保持する保守党は足掛け18年政権を担当しつづけた。

その間に問題は膨らんでいた。貧富の差は広がり、医療や教育では公的サービスの荒廃が限界線まで達していた。92年の金融危

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