自分は決してゲバラをアイドル視したり無責任な神格化をするつもりはないのであるが、ひとつだけ。
以下の記事にはエピソードの前段と後段が省略されている件。
◇ゲバラ:被爆地・広島を夜行列車でゲリラ的訪問 訪日時
キューバ革命の英雄チェ・ゲバラが訪日団の団長として59年に来日し、広島をゲリラ的に訪問した際、副団長と2人で大阪から夜行列車に飛び乗ったことが9日、分かった。副団長だったオマル・フェルナンデスさん(76)が明らかにした。
フェルナンデスさんは「チェは被爆地・広島訪問を熱望し、私と2人で大阪のホテルをこっそり抜け出し、夜行列車で広島に行ったんだ」と振り返った。
ゲバラは59年1月の革命後、同年6月から3カ月間、アジア・アフリカを歴訪した。訪日団長が当時31歳のゲバラで、副団長を2歳年下のフェルナンデスさんが務めた。7月中旬に来日、10日間滞在し、自動車工場などを視察した。
フェルナンデスさんによると、アルゼンチン出身の医師であるゲバラは、予定になかった広島の被爆地訪問を強く希望したが、日本政府の許可が出なかったという。業を煮やしたゲバラは大阪のホテルに滞在中、「ホテルを抜け出して広島に行くぞ」と決断。オリーブグリーンの軍服姿で大阪駅で切符を買い2人で夜行列車に飛び乗った。 「被爆者が入院する病院など広島のさまざまな場所を案内され、私同様、チェも本当にショックを受けていた」とフェルナンデスさん。帰国報告の際にゲバラは、フィデル・カストロ国家評議会議長(当時は首相)に「日本に行く機会があれば、必ず広島に行くべきだよ」と強く勧めたという。
カストロ議長は03年3月に広島を訪問。フェルナンデスさんは「フィデルはチェとの約束を守ってくれた」と感激した。
フェルナンデスさんがゲバラに初めて会ったのは59年1月の革命直後。
「外国人としてキューバ革命に参加したチェを私は知り合う前から尊敬していた」と話す。
ゲバラが工業相を務めたときには、フェルナンデスさんが副工業相の一人に任命されるなど信頼を得た。しかし、ゲバラが39歳で命を落としたボリビアでのゲリラ闘争には誘われなかった。
「一緒にボリビアに行けなかったのが少し悔しい」。フェルナンデスさんは寂しそうな顔をした。
毎日新聞2007/10/09 (写真:原爆慰霊塔で献花するゲバラ)
チェ・ゲバラが来日したのは1959年で、革命成立後。キューバ通商使節団として来日したのは、苦境に陥っていたキューバの経済のために移動大使として、日本政府やトヨタやソニーなどの大手企業を訪れキューバとの貿易や投資を求めにきたのだった。
そんなゲバラらしい広島行きだが、次の省略されたエピソードはさらにゲバラらしい。
来日したゲバラは、大使館スタッフから、東京で無名兵士の墓の詣でる予定が決まっていることを告げられる。
「しかし、日本の無名兵士とはアジアで多数の人々を殺した兵士のことではないか。そんなとこへ行くわけにはいかない」とゲバラは拒否し、逆に、予定にはなかった広島行きを実現させた。
「米国にこんな目にあっておきながら、あなたたちはなお米国の言いなりになるのか」と、ゲバラは案内役の日本人に尋ねたという。
-ゲバラを脱神話化する-
ゲバラが拒否した無名兵士の墓とは当然靖国神社のことである。
ネガをもつ写真家は、この肖像からお金を取るつもりはないとのことである。彼の意思を継ぎ、平和目的に使うものであれば、との条件つきである。
ゲバラのイコンが溢れる日本で、彼の革命の夢はどのように理解されるべきなのか?
エピソードのゲバラの来日の翌年、アメリカによる経済封鎖が始まり、そして続いてキューバ危機。アメリカとのチキンレースに勝ち残った後、今度はゲバラはソ連の「社会主義国による帝国主義の共犯行為」をアルジェリアにて批判。
それをきっかけにカストロと袂を分かち、そしてコンゴへ、さらにボリビアへと旅立つ。
ちなみに、チェは日本についてキューバと比較して次のように言っていたことを最後に追記。
日本人と同じように、われわれもほとんど何ももっていない。石油もない。
あっとしてもほんのわずかだ。鉄鋼も石炭も産出しない。
日本には米があり、キューバにはサトウキビがある。
しかし日本人はわれわれがサトウキビから得られるものよりたくさんのものを米から得ている。
国を発展させるために、我々はもっと頭を使わなければならない。
チェ・ゲバラ -革命を生きる-
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