◇「アバター」オフィシャルサイト
「タイタニック」からすでに10年以上の時がたっていたんですね。
キャメロン自身は、CGのキャラクターが実写の人物とともに演じる映画のコンセプトが技術的に可能になるまで待っていたと言っているみたいですが、それだけの出来といってもいいでしょう。実写とCGアニメーションのスムーズなコンビネーションは、この作品が最先端となりました。
ジャイムズ・キャメロンが、「ターミネーター」や「タイタニック」で映像技術を革新させたときと同じく、またほかの人がここまで到達するのはしばらく困難なことになるでしょう。
シュールリアリズムの画家の作品のような異星の異文明の世界観は、すでにたくさんのSF作品で出てきましたから、すでに紋切り型となるような描写もあります。しかし、ここまでの圧倒的でスムーズな映像力ではかなりの説得力があります。
この作品を撮ることが出来るまでの10年間、技術の進歩を待っていたということですが、その間の10年間の映画の潮流も物語の定型も、いろいろと取り入れていますね。
すでに多くの人が指摘していますが、宮崎アニメーションの自然との共生とそれを守るものというテーマは、これまでのアメリカSF映画には、ありそうでなかったテーマでしょう。
ナビィ族の開発を進めるのも、私企業で傭兵というものも、現代の新自由主義時代の中東の情勢のようで、新しい資本主義の問題に少しだけ踏み込んでいます。
さて、ここまではジェイムズ・キャメロンの映画プロデューサーと完璧な映像演出家としての部分を褒めてみましたが、肝心の映画としてはどうなんでしょうか。
あまりこの監督の作品にやいのやいのと言っても無粋は承知で書かせてもらうならば、この映画は典型的な植民地主義視点のいつものパターンの映画です。
軍事的・経済的に優越した欧米社会が、異なる文化を制圧していく過程で、主人公は征服するべき相手方に寝返って、王国の側についてしまう物語アーキタイプ、それは多数の映画で取り扱われてきました。
コンラッドの小説「闇の奥」は、コンゴの密林で原住民を従えて自分の王国をつくってしまう商人の物語でした。が、それを原型として、映画で続くのは「アラビアのロレンス」、「地獄の黙示録」、最近だと「ラスト・サムライ」もそのパターンのひとつかも知れません。「スターウォーズ」しても、薄められてはいるとしても、そういう構造をもっています。そして、それ以外にも多数、このパターンの作品は作られ続けています。
欧米の歴史は軍事的・経済的な優越した立場から、征服・侵略を繰り返し、自分の価値観や制度を押し付けていくことの歴史でした。そして、それがままならなければ、軍事的な解決を結局はしてしまうこと。それは、もちろん良心の呵責に苛まされるべきものなのですが、それを物語的に懐疑していく行為を映画は繰り返します。
宮崎アニメーションの物語構造を導入したり、レヴィ・ストロースの構造主義の人類学のように、実は隠されたネットワークが未開の部族の生活を規定している、という隠された謎を最後に強引ともとれるように付け加えてみせたり、この「アバター」には、それなりの新しい妙味はあるのですが、やはり基本構造は変わりません。
この、植民地主義の中で異文化を征服することへの懐疑というテーマは、どの物語でも結局は主人公は敗北することになります。あるときは狂気のレッテルを貼られ、あるときは主人公の物語的な限界に直面します。
この映画では、自分の分身(アバター)を介してしか異文化に入り込めない限界があり、破滅が決まっているのです。
キャメロンは、あえて映画の最後で、そこを乗り越えるようなところを暗示しつつ、しかしそれは提示されません。
この映画は続編を想定しているとのことですが、そこへつながる道筋をつけたエンディングだったともいえるでしょう。
しかし果たして、その続編は物語的に成立することができるでしょうか。
先行する物語を参照すると、悲観的にならざるを得ません。
以上のような思いをどうしても感じてしまうのですが、ここは余分なものとして映画的にはおいて、ただ単にシュールで美しい映像美や、パワードスーツや戦闘機が繰り広げる戦闘シーンに息を呑むといった楽しさだけで、十分成り立っている映画でしょう。
2010年一本目の鑑賞となったこの映画、自分の今年の映画めぐりの旅の幸先のよい出だしと感じています
FWF評価:☆☆☆★★
植民地主義映画のアーキタイプ / 「アバター」 ジェイムズ・キャメロン
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