鬱蒼と生い茂る森は、よく潜在意識の世界の隠喩として物語では取り扱われる。
ちょっと前の映画なら、地獄の黙示録。
ヴェトナムのジャングルを遡行するボートは、そのまま自分の無意識の中に入り込んでいく姿で、そこには自分の変わり果てた姿を映し出す鏡であるかのような人物を見出す。
そのときに、取り扱われていたテーマが、ドアーズの「ジ・エンド」だったことからわかるように、エディプス・コンプレックス的な父殺しが浮かび上がってくる仕掛けだったことを思い出そう。
最近の映画ならば、「レボリューショナリー・ロード」。主人公は、森の中で狂人である人間と対話し、そこで物語の転機となるような会話をマジあわし、そして妻は、その森の中に迷い込み、そして暴走を開始する。
無意識の中に遡行して、自分の深層心理と対話すること。
それが、森の中の出来事として映画で描かれるパターンの典型が、この「ポーラX」の極めて不気味で驚きに満ちた邂逅のシーンである。
彼は、自分を見張るような視線を浴びている意識にさいなまされている。それは、夢の中に出てくる女。その女が、無意識の世界から現実化してくるのが、この森のシーンだ。
オカルト映画のようなタッチのこのシーンが、この映画のまずは始まりである。
ポイントは、この無意識の世界から現実化したような女が、主人公の姉を名乗ること。
そして、その姉は、私生児のように扱われて、父から捨てられた存在だったこと。
さらには、そのために、戦火を逃れてきた被差別の東欧難民として彼の前にあらわれたこと。
この映画の1999年、東欧から戦火を逃れてきた・・といえば旧ユーゴスラビア紛争がすぐに思い当たるだろう。彼の父は有名な外交官であったらしいことも重ねて描写される。
ここから、彼の破滅はスタートを開始する。
家族からの逃避、一族の幸福を象徴するようなフィアンセを捨てようとし、さらには、父殺しの代理行為のように、近親相姦的な関係を姉と取り結ぶ。
(中上健次の「岬」でも、父親に対する復讐のように腹違いの妹と交わるエピソードがありましたね)
ここに、西欧が東欧に残した禍根と、それに苛まされる西欧の混乱・・・みたいなテーマとか仕掛けみたないものを見出すこともできるかも知れません。これを追求しても、この映画からは、ほかには何も出てきません。
まあ、カラックスが、そういう時代の雰囲気をここに取り込んだのは間違いないでしょう。
実は、自分の一家の幸福な姿の影には、そのような暗く呪われた一面があり、しかもそれに復讐したくとも、その対象がすでに不在。自分の洋館の屋敷の中にある封印された部屋には、その秘密があるのかも知れない・・・そういう思いで、部屋のドアを気が狂ったように叩き壊した主人公の前には、ただ埃のかぶったがらんどうだけが目の前にあらわれることになります。
よって、主人公にとって悪夢のような自分の家族の出自に対して、何をもすることができない。そうなると、もうこれは自分自身に、父と一族を投影して、自分が破滅することを選ぶことになります。それは、つまり狂気ということです。
この映画のテーマみたいなものをまとめると以上のようになるでしょう。
で、ここからがレオス・カラックスの映画ワールドの話です。
いや、もうここまで幻想世界ギリギリのところで狂気を表現するって、すでに商業映画ではキツイですよね。カラックスだから許されることでしょう。
後半はもう粗筋とかストーリー展開とかは、どうでもいいんですよ、この映画では。
どれだけ衝撃的に詩的イマジネーションの中で主人公を破滅させるか、ただそれだけ。
その映像的な破壊力だけが重要なのです。
もう皆目意味がわからない、工場の廃墟のようなところにつくられた、精神病院とも前衛芸術家の巨大な寄宿舎ともつかない「場所」や、これまた意味不明なインダストリアル・ミュージックのバンドやら、その衝撃力は強力です。ダークです。
カラックスの映画の疾走感が、ひたすらダークに展開されていき、そして大家となりつつあったこの人が、すべてわがまま言いたい放題で、オレの好きなようにやらせろ!とまわりを怒鳴り散らしながら撮った映画じゃないでしょうか?
そのため、当然ながら、これについていける人とついていけない人は出てくるでしょう。
そういう映画の詩的な楽しみ方を、ダークな物語性とともに味わえる人のみ鑑賞をお勧めします。
ラストの従兄弟を射殺するシーンからの流れもレオン・カラックスの世界。悪くないですよ。忘れられない映画の一本です。
潜在意識に遡航する / 「ポーラX」 レオン・カラックス 【映画】
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