この映画をもし10代に観ていたら・・・ / 「リリイ・シュシュのすべて」 岩井俊二 【映画】

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デジタルカメラで撮られた2時間超の物語の中、これでもかこれでもかと逆光とハレーションの中の陰影の中に、独特な色彩が溶け込んでいく。
映画の外の喧しい物語の成り立ちは自分としては興味がない。
よって、自分としてはこの映画の映像の実験性にのみ、表面上、すごいなと評価する。
逆光やハレーション、淀んだ光(作品中のキーワードになっている「エーテル」を思わせる)を表現するために、立ち込めさせた靄のようなもの。
ハンディカメラの映像が延々30分近く続き、ここだから許されるだろうという生と死の夢幻的なエピソードが連ねられる。暗視カメラの映像で自慰行為や犯罪シーンが描かれる。
詩的なシーンを積み重ねるだけ積み重ね、そしてどんよりと物語は終わっていく。
自分にとってはそれだけだ。
もし、この映画を10代に見たなら興奮したかも知れない。その色彩感覚や詩的な映像を褒め称えられたかも知れない。が、今は無理。
世界は残酷に出来上がっていて、それに美を見出す感覚。
始まりも結論もなく、だからこそ世界は残酷で美しい・・・といった倒錯した考えが、自慰や放尿や援助交際や裸にするリンチなどの少年や少女の世界の振る舞いや掟にからめて展開される。
インターネットの掲示板サイト、架空の歌手、架空のヒット曲、そういった仕掛けも器用であるが、自分には今ひとつなぜだかわからないが響かない。
タフとは程遠い人物ばかりなのも気になる。これも岩井俊二ワールドだと思う。皆、男は痩身で、神経質なへらず口だけは達者か、それともなければ悩んでいる、ひたすら悩んでいる。好きな人はいるだろう、しかしこれも自分には駄目だ。
(ただし、生き生きと演じられているのだが、何かが生理的に合わない)
この作品について、もうふたつだけ付け加えると、スクリーンで見てハンディカメラシーンで船酔いすること。本当に、あのハンディカメラ演出は必要だったのか。
これはただただつらかった。
それと音楽。ドビュッシーと小林武史、まるで高校生の趣味のようだな、と思う。それでいいのだろうけれども、この映画の場合。そういう映画なのだから。
敬意を払いながら、それでも岩井俊二は自分にはフィットする部分がありません、と再確認し、ここに宣言させていただきます。ファンの人、申し訳ありません。

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