◇「モーターサイクル・ダイアリーズ」
チェゲバラというのはアイドルである。
アイドルというのは、コトバの意味からして「偶像」であり、空虚なものだ。
だから、幾ら浦和レッズのゴール裏にゲバラの肖像画がゲーフラとして高々と上げられていたとしても、ビレッジバンガードに関連本とグッズのコーナーが出来ていたとしても、それは空虚である。
そして、空虚であるが故に、記号として取り扱うことが出来る。
赤い=革命→ゲバラという連想で来たのが、サッカーのゴール裏のゲバラだと思うのだが、それだったら毛沢東でもマルクスでもトロッキーでもいいと思うのだが、そこはやはりゲバラでなければならない。
塩野七生は、こんなことを言っている。
「共同体を率いていく人物というのは容貌というのが大切なのだ、なぜならその人が直接接することができる人数には限りがあり、しかし、それ以外の人をも率いていかなければならないからだ」
ジョージ・ブッシュは大統領になれたが、しかしマイケル・ムーアはきっとどんなに逆立ちしてもリーダーには決してなれないだろう。
毛沢東は、ビートルズの”レボリューション”の歌詞にあるように、60年代の革命戦士気取りの人たちにブロマイド的に取り扱われたが、21世紀の現在では、さすがにカレのはげ頭をポップに取り扱いブロマイドにしていくのは難しい。
そこでチェ・ゲバラのおよびとなるわけだ。
さて、そんなこんなで、ゲバラの自伝的映画である「モーターサイクルダイアリーズ」を見た。
想像通り、アイドル映画であったのは言うまでもない。
南米の革命史について述べるのは本当に浅はかな知識しかないので割愛。
しかし、あの程度の旅行でのエピソードで、人生感が変わって革命のために人生を賭すようなら、いったいそれまではどんなアマちゃんな人生を歩んできたのか。
まあ、全編スペイン語にはなっていたものの、ほとんどアメリカ映画で出来ているようだし、あんまり深く突っ込むわけにもいかなかったのだろうけど。
アイドル「チェ・ゲバラ」について、少年マガジンとかで自伝マンガにしたてたら、ちょうどあんな感じになるのかも知れない。
ケバラについて本当にリスペクトするなら、もっと違うところから入るがいいし、そのリスペクトを表現するなら、もっと違う方法がある。
もしイラクがアメリカだったら。
無鉄砲な若造の医学生が、いい年こいてまだ遊びっ気が抜けない化学の講師が、思い出づくりに、ユーラシア大陸を横断のヒッチハイクの旅にでる。
様々なトラブルに遭遇しながらも、過酷な土地の生活を目撃し、さらに混乱と搾取と貧困を目の当たりにする。
最終地点はボリビアじゃなくて、イラクにしてみよう。
医学生は、そのまま革命のために自分の人生をイラクのゲリラに投じる。
そんなことがゲバラのTシャツ着ているきみらに出来るのか?
・・・などと、映画館出てくるゲバラファンにひとりずつ小一時間も説教してやりたくなった映画でした。
あまり映画の観る角度として良いかというのは別としての感想。
しかし、映画の主人公の青春はあったとしても、映画そのものが青春のままであっていいはずはない。
もしキューバが、イラクだったらアフガンだったら / 「モーター・サイクル・ダイアリーズ」
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