◇「日本の夜と霧」
1950年代前半日本共産党は、コミンテルンの指示のもと武装闘争路線を進めていた。
しかし、その路線は治安維持法の成立を招く結果となるだけではなく、一般有権者の支持も失い始め選挙に敗れ、議会政党としての立て直しが必須の事態となっていた。
中国・ソ連の干渉を避ける自主独立路線のもとに、日本共産党第6回全国協議会により武装闘争路線は放棄されることとなった。
「若者よ、身体を鍛えておけ」という歌がこの映画の中で出てくるのは、この武装闘争路線を放棄した日本共産党の学生組織(民青)が、より非暴力主義的な「うたごえ運動」という青年組織化路線に切り替えたことへの皮肉である。実際に、この方針転換は武装闘争路線にひた走っていた末端の活動家や学生に衝撃を与え、そしてそのトカゲの尾を切る行いに我慢できなかった人々は、新しい活動のあり方を模索しはじめる。
1960年の反安保闘争は、共産党指導を離れた学生運動の盛り上がりにより過激化していくのだが、これを共産党は「暴力主義的な似非左翼」と批難して距離を置く。
この映画では、以上のような1950年代から60年安保闘争につながる左翼の歴史がモチーフとなっている。
結婚する二人は、1952年の血のメーデー事件前後に学生運動の渦中にいた新郎と、60年安保闘争の現在に身を投じていた新婦。
披露宴の司会は、共産党の幹部党員。かつては、新朗とともに活動を行っていたが、党の指導に従い、うたごえ運動を主催していた。
披露宴の祝辞の中で突如乱入するのは、60年安保闘争で指名手配となっている男。新婦が闘争の中で行方不明となった活動家の仲間を見捨てて結婚するなどということの欺瞞を糾弾しに現れたのだ。
しかし、その欺瞞は何も今だけではなく、新郎の学生運動の時代にもあったのではないか?式の参列者は次第に過去を回想していく。
1960年の段階で、共産党の権威は、学生・知識人のあいだでは没落していた。さらには選挙での敗北により議会政治の中でも追い詰められた立場となっていた。
一方、日本の反米的なナショナリズムや平和主義のスタンスからも60年安保闘争は空前の規模で展開されることとなる。この流れはすでに党権威とは全く別の流れから巻き起こったものである。
武装闘争路線から平和革命への変貌は、様々な軋轢や人々の不幸を招いたことも多く、挫折や転向で多くの人々が傷ついた。自殺するものもいたし、行方知らずになっていったものも多かった。それを披露宴の新郎とともに回想するのは、その時代の学生活動家だったものだ。
しかし、それは今ここ(60年安保闘争)で起きていることでもあるのではないか。党や権威への服従の中で起きたことを振り返らずに、何ごともなかったかのようにまた闘争が起きて、不幸が次の世代に繰り返される。
「夜と霧」は、ナチスの強制収容を取り扱った作品である。霧の夜に、多数のユダヤ人や精神病患者やジプシー達が連行されていった事実の告発の作品名を借りながら、日本においてもそのような闇に葬り去れようとする事実があるのだ。
大島渚は、その告発をリアルタイムのテーマとして発表した。目を背けたくなるような臓腑の解体の光景のように、できるかぎり鮮明に。それがグロテスクやキッチュとなってしまうなってもかまわないし、むしろそちらの方がリアルである。
大島渚はいつもそうであり続けた。これを見ろ、これが人間の生命や活動を支えている臓腑であり、そこに救った病巣である、と血まみれのままの手を突き出すかのように、映画を撮り続けた。
この映画を50年後の現在に観るものは、これまで述べたような背景をある程度理解していないと厳しい映画体験になるだろう。だから、あまり人にはおすすめできない映画である。
この映画の凄さはこのモチーフがリアルタイムで進行していたものであり、それを生のまま、出来る限り迫真さをもって撮りたいという徹底した意思に貫かれていることである。
また、学生運動ならでは長舌でまくしたてるセリフは普通に噛んだりトチったりしている。舞台劇のようなシーンの少なさや、長台詞の応酬と徹底した長回しも、不器用と迫真の間を行きつ戻りつつしている。
しかしまたこれがとてつもなく迫力として自分は受け取った。
ドキュメンタリーでもなく、しかし物語というならあまりにも生々しすぎる。映画としての完成度などというものとは全く違った意味での強烈なインプレッション。
それが今でも光輝いていることを称賛したい。
池袋新文芸坐、特集:「映画を通して戦争と戦後を考える」にて。
60年学生運動の病巣の解体劇 / 「日本の夜と霧」 大島渚
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