「貸間あり」川島雄三 /余計者の逃走

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通天閣を見渡す高台にあるボロボロの屋敷。
そこを「アパート」として間借りしている珍妙な住人たち。
蜂の養殖で美容液をつくりだそうとする男、不気味な生命保険屋、パパを3人転がすちょっと頭の足りなさそうな美女、欲求不満で発情期のネコのような声を絶えずあげている年増の嫁、男を連れ込んで商売するダミ声のデブ女。
ハウトゥ本「なれるシリーズ」の著者にして、学術巧みに使いこなす万能人にして、しかし生業は「なんでも屋」のフランキー堺もそのひとり。
ある日、そんなフランキーのもとに、怪しげな浪人生(小沢昭一)と美女の陶芸家の女性(淡路千景)が訪ねてくる・・・・。
井伏鱒二の同タイトルの小説を原作にした、スラップスティックコメディ。
「どぎつく、汚い」と原作者には不評であったことを、監督川島雄二は気にしていたようだ。確かにこの映画は露悪趣味に満ちている。
さて、川島雄三お約束の排泄シーンは、ラストシーンにて登場。
高台のうえから通天閣にむかって、「さよならだけが人生さ」とつぶやきながら、小便を勢いよくする桂小金治は、日本映画の名(迷)シーンのひとつに数えてもいいのではないかと思うが、このシーンがむしろ構図にかっちりおさまって整理されてみえるくらいに、この映画は「どぎつく、汚い」とっちらかり方をしている。
「たしかに、人間の汚さ、色気を図式的に出しすぎたきらいはあります。しかし、小清としては悲鳴をあげていることが理解されなかったのは、悲しく残念です。汚さの中で、自分の悲しみを出したかったのに、反対に解釈されてしまった。作者としての自分が泣いていることが、ちっともわかってもらえなかった」(『川島雄三 乱調の美学』)
川島雄三が撮りたいと思って撮った作品は、対外は、人間の薄汚れた品性が澱んだ吹き溜まりの世界から逃走を企む人たちの物語だ。
そういう意味で、この『貸間あり』は、大傑作『幕末太陽傳』とストーリーの構図は相似形を描いている。
傑出した才能を持ちながら、市井のどん底にひょうひょうとその日暮らしを続けている「余計者」の主人公フランキー堺。無為な暮らしの中に沈みながらも、その切れモノぶりに、女はいいよってくるし、暮らしはなんとかやりくりできるが、最後には、その世界から遁走していく。
『幕末太陽傳』の品川宿の海岸から、『貸間あり』では通天閣を望む高台に舞台はかわりながらも、おおよそあらすじは同じなわけである。
「八方美人のゲテもの今次用を振り払うまでは」と、恋仲になりかけた陶芸家の女性から、サヨナラを告げるフランキー堺は、きっと川島雄三の悲鳴の代弁者でもあったわけでしょう。
『幕末太陽傳』の主人公が結核と思しき病に冒されているのに対して、こちらのフランキー堺も喉が悪そうだったり、余計者に暗い影がつきまとうのも同じですね。
ただ、『幕末太陽傳』が高杉晋作といったポジティブに社会に反抗していく人間を、「余計者」に対置させていたがゆえに、ドタバタ喜劇が引き締まった筋立てになっていたのに対して、替え玉受験の顛末で映画をまとめようとしているので、ちょっと収拾がつかない感じがするんでよすね。
そのため、やっぱりこれだと露悪的なドタバタ喜劇として受け取る人がほとんどじゃないかと。
あまりにも、喜劇の裏で進行している悲しみの位置づけが唐突な感じなんです。ちと残念。
ところで、二階屋敷の縦の構図で描かれるシーンの多さは、川島雄三の作品で共通ですね。
しとやかな獣』では、マンションの5階の一室でほとんどの物語が進行しますし、『幕末太陽傳』では女郎宿は二階建て、『洲崎パラダイス』では主人公が逃げ込んだのは、歓楽街のメシ屋の二階でした。
この映画でも、フランキー堺の主人公のインテリよろず屋は、何に使うのかわからぬ無線機や録音用テープリール、イス代わりにおかれた太鼓に囲まれながら、二階の一室に住んでいます。
川崎市アートセンター・アルテリオシネマ特集「異彩の系譜」にて。

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