「悲しみのミルク」クラウディア・リョサ/ジャ・ジャンクーの影響

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◇『悲しみのミルク』公式サイト
ペルーは20世紀の最後20年間、事実上の内戦状態にあった。
2003年のペルーの真実和解委員会による報告によれば、69,280人がこの間に死亡。
その大半は農民で、しかも先住民のインディオ系である。
その原因は、貧困農村部を拠点としたペルー共産党センデロルミノソと、都市部を拠点とするトゥパクアマル革命運動(MRTA)の両ゲリラによるものだが、これの鎮圧にあたった軍部や警察の白色テロによる弾圧も苛烈を極め、数々の不法行為と民衆へのリンチや処刑、集団殺りくや略奪や強姦などの罪を重ねた。
フジモリ元大統領について、日本では左翼テロを封じ込めた貢献者というような評価を見るのだが、これは非常に残念なことである。
フジモリ元大統領の就任していた時代の軍・警察・治安部隊による民衆弾圧は過酷を極め、法を逸脱した処刑や、死の部隊と呼ばれた治安部隊による暗殺や強制失踪や残虐行為を行ってきた。内戦による死者の数の半数は、軍や警察によるものだという指摘すらある。真実和解委員会は、フジモリ元大統領の責任を厳しく糾弾している。
多くの人たちがこの内戦により、故郷を離れ都市部にスラムを形成して住みつき、貧困に苛まされている現状は、この映画「悲しみのミルク」に描かれているとおり。
映画は、このような右も左も残酷な殺戮者というような状況の中で、夫を殺され犯されてきた老婆の悲しみを歌った不思議な曲から始まる。
老婆の過去の悲惨な記憶を歌い継いできたインディオの女。
ほとんど失語症ではないかと思えるくらいに言葉が少なく、声になるのは老婆と交感するときにする歌を口にするときだけだ。
そのため、まわりのものからは、悲惨な体験をしたものから授乳されて育ったものだけがなる「恐乳病」という病に冒されていると思いこまれている。
老婆が亡くなった日、女は失神するようにして倒れ、叔父に病院に担ぎ込まれるが、そのとき、女が膣部にジャガイモを入れていて、それが育って芽や根まで出ていることが明らかになる。
老婆の教えから、暴虐な男たちがやってきても、犯されないようにわざとジャガイモを入れているというのだ。
このインディオの女が、老婆から受け継がれた悲しみの記憶に自己崩壊している姿が、秀逸なカメラワークで描かれていきながら、自分自身で自己を確立していく過程、それかこの映画のあらすじ。
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様々な迫力に満ちた映像は、ジャ・ジャンクー(賈樟柯)の強い影響下にあるのではないかと推測する。
結婚式ビジネスの空虚でキッチュなシーンの挿入などは、ジャンクーの『青の稲妻』を容易に思い起こさせるし、広がった空の下の廃墟のような生活の場をジッとカメラがとらえ続けて動じないところなども典型的なジャンクーの映画空間だ。
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もっともジャンクーのような喪失の風景をひたすらカメラが静止して捉えていく物語ではなく、もう少し刹那的にカメラは主人公に迫っていく。失われていく何かを撮るにはカメラは微動だにしてはいけない、そんなジャンクーのカメラワークよりも、この作品は動的である。きっと映画のテーマが、喪失の反対のベクトルをもっているからだろう。
素直に考えればバカバカしい話である。膣にジャガイモを入れ、それが根を生やし芽を出すために、女は定期的に股間にハサミを入れる。歌でなければ、自分の意志を伝えられないというのも本来ならば滑稽な姿である。
ジャンクーならば、喪失の風景に抗う近親愛や友情が翻弄されていく姿を観客に静かに見つめさせ続けるだろうが、ここではそれすらも失われている。
主人公が身を寄せている伯父の男は、主人公に対する慈しみと同量に厄介者扱いの振る舞いを隠さない。同僚や近所の人たちは彼女に無関心に近いし、メイドとして働き始めた作曲家は自分の歌った曲を剽窃する始末。
しかし、そんな身寄りも味方もない中で、歌を通じて彼女は何かをつかみ、たったひとり、不器用ながら微かに心を通じ合わせる庭師の男に最後に助けを求める。
庭師は病院で彼女のジャガイモを摘出する手助けをする。
大地に根差すはずのジャガイモが、母胎にもっとも近接した膣部で育てられている。それを、植物の専門家である庭師に助けを求めて摘出するわけだ。
いや待て、摘出ではなくて、本当は出産だったのではないか。彼女は自分の歌が剽窃されたことを目の当たりにして、何かをつかんだのではないか。
母親の遺体は結局海に捨てられることになる。作曲家のメイドの仕事を失ったからだ。
海を前にしたシーンで、これまでのデジタルシネマカメラから、フィルムと思しきざらついた少しだけコマ送りの画質になる。お見事!
そしてラストシーン、主人公の家に届けられた花咲くジャガイモでトドメです。
これは素晴らしい作品です。

監督クラウディア・リョサは、フジモリと大統領職を最後まで争ったこともある、ノーベル賞作家マリオ・バルガス・リョサ。
ベルリン映画祭金熊賞は伊達ではありません。ブラボー!今後にも期待します!
主演のマガリ・ソリエルも圧倒的。歌もよかった!
ベルリン映画祭の受賞式のスピーチでは、最初スペイン語で話して、そののちにケチュア語(映画の中のインディオの言葉)で話はじめて、最後にアカペラで歌いだすシーンがありました。
何をしゃべっているのかわからないのですが(笑)、たぶんケチュアの人々の苦難を語っているのではないでしょうか。ちょっと泣かせます。

撮影は、「シルビアのいる街で」のナターシャ・ブレイア。透明な空気感と光のきらめきを丁寧に写しこんだ前作に引き続きナイスです!
いうことなしの完璧な一本でした。
FWF評価:☆☆☆☆☆

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