AKB48のマーケティングはJリーグ百年構想のためのヒントになるのか?

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昨日のフットボールサミットのトークイベントにお越しいただきましてありがとうございました。
自分で数々のトークイベントはやってきたものの、今回はおそらく初めて版元様からお呼びがかかったものでした(笑)
そのため、岡田武史銅像お披露目イベントから、半年ぶりの登壇もあり、多少緊張する出だしとなりました。
緊張したのは、他にも何よりも、ミカミカンタさんがものすごい圧力だったからです(笑)
でも、この人、マジでおもろいオッサン(ごめんなさい)ですよ!!たぶん、文章でみなさんが想像されている人とは違うと思います。
さて、そのイベントで雑然とした話をしすぎた感じがして、どうかなーと思っていたら、やっぱり「Jリーグ原理主義者」みたいな感じで捉えられているみたいです(笑)
そもそも、Jリーグというのは、J1とJ2の数十クラブのことだから、日本の地域サッカーモデルそのものを指して、Jリーグというのは間違っていると植田朝日まんから注意されたとイベントで言ったはずなので、もうそこからしてどうかと思うのですが。
まあ、それでも仕方ないですかね。。。
で、その中でちょこっと出てきた話が、自分的にはひっかかったまんまだったので、ここにまとめてみます。
AKBって流行ってますよね。自分、よくわからないんですが(笑)
最近、はじめて板野というコの顔と名前を一致させました。
アムロっぽいので、たぶん女子受けはコイツが一番いいのではないかと印象に残ったからです。
で、それだけです。
「アーカーベーってそんなにすごいの?」的なことを書いた宇都宮さんのtwitterが「炎上」したらしいのですが、自分から言わせると、その昔に自分も含めたマリサポのブログが総攻撃されたガッタス事件のときのほうが、凄かったと思う。あれに比べたら、今回のは焚火くらいの炎上ですよ。なにせ、あの攻撃で、当時の自分のブログがあったDoblogが、運営者事情以外で、初めてアクセス過多による障害になりましたから(笑)まあ、そんなのはどうでもいいか。懐かしい話ですけど。
そのAKBが、総選挙っていうのをやったりして、凄い話題になっているわけですね。
で、そこからアイドルビジネスをサッカービジネスに転用したらどうだろう?という、まあほとんどネタの話があったわけです。
これはこれで面白い話ですし、商売って基本的には模倣から始まるものですし、ジャンルや地域や時代を超えた模倣っていうのが、商売としての差異を生み出すこともできるわけですから、とても面白い話だと思います。
この話、サポティスタの岡田さんあたりが火つけ役になっていたりして説得力があります。もはや、アイドル評論家としての立ち位置をしっかりつくりあげている人ですし(笑)
基本的に、こいつが売れるというのは、アイドルに関してはだいたい岡田さんがサポティスタの記事に紛れ込ませているアイドルネタをおっかけていればいいんじゃないでしょうかね。韓流女子アイドルグループまでは読みきれてなかったようですが。
アイドルとサッカー。
岡田さんがいつも言外で言おうとしているのは、結局この二つは同じなんだよ、ということだと思います。
それはかなり核心をついています。
両方ともようするにエンターテインメントビジネスなんですよね。だから、そこに着目して共通点と差異を見出し、そこに双方のメリットになるようなヒントを見出すことはポジティブな話だと思います。
マリノスタウンの1ブロック先には、BLITZというライブハウスがあります。そこは、それこそPerfumeとかその他のアイドルとかがライブをやっているわけです。その日には、施設のまわりには、それ風の人たちが集まって、列の中で彼らだけのコミュニケーションをとりあっています。
それを横目で見ながら、わたしたちはマリノスタウンの練習見学に行くわけです。Jリーグのシート貼りと待機列と同じ光景だな、と思います。
エンターテインメントの世界のビジネス成功の秘訣は、客に錯視させることです。
鏡の中の自分が単にお金を払って商品を買っていると如何に思わせないか。AKBの総選挙も、<自分がクラブを支えていると勝手に思い込んでいる「サポーター」という存在>も、そういう意味では同じようなものです。
ならば、アイドルとサッカービジネスを同一線上で捉えることは全くもって適切なことだと思います。実際、そのように考えればいい局面もあるでしょうし、そういうところからアイディアも出てくるのではないでしょうか。
ちょっと余談ですが、そうするとAKBの初期の成功モデルである「ヘビーユーザー重視」の初期戦略というところも活かしたほうがいいかと思うのですがね。ちなみに、このヘンの考え方は、今の代表からシャワー効果でサッカーマーケットを広げるという考え方とかなり違っていると思いますが。
けれど自分が、このサッカーとアイドルがエンターテインメントビジネスとして同一という考え方には、なんとなくいたしかたない追認を与えるような思いがあるのも事実です。
AKBのビジネスモデルって、ようするに参加型アイドルってことですよね。
それをうまく参加することそのものにお金を払わせる仕組みをつくったというところが画期的なところです。
これは、実は「サポーター」のビジネスモデルなわけです(笑)

「ファンは、チケットを買ってショーを楽しむ。 サポーターは違う。 選手と一緒になって戦っている」 岡田武史

・・・といっても、まずはサポーターは、クラブの繁栄に参加しているかのような幻想を与えられて、現実的には、それでお金を払っている観客なわけです。
これはグウの根もでない事実です。
ところが、自分が考えているところは別のところにあります。
この先に行かないと、結局日本のサッカー文化って、そんなに先がないものになってしまうのではないかという想いです。
なので、AKBの参加型アイドルビジネスを超えたところに行かないと、ダメなんじゃないかという普段からの思いがアプリオリにあって、そのため、エンターテインメトビジネスとしてはアイドル=サッカーという発想に、反発せざるを得ないのです。
ざっくりとまとめるとこんなところです。
日本だとプロサッカーは客に料金をもらって「観戦して頂く」ものだった。
ところが、欧米のクラブはみんなが苦労してつくりあげた自分たちのものだったから、権利もあったし、逆に責任もあった。だから地域に根付くわけで不変の人気もある。
自分たちのチームとして、責任を共有する理念がなければ、それはエンターテインメント。その考え方でサッカーに対峙する人が「ファン」。そうじゃないよ、俺も小さなところからでも参画しているぜ!というのが「サポーター」で、「クラブ」の語源からの正しい解釈。
ようするに、サッカーのファンが単なる「顧客」で在り続けるうちは、結局は根底的な部分でクラブカルチャーはうまく以下ないのではないかということです。
よし、それではオレたちはチケットを買ってお金をクラブにもたらしている、だから、クラブに貢献しているというのも違うのです。そこから先に行く方法はあるのではないかということです。
もちろんややこしいのは、サッカークラブというのは、そのほとんどが正しく営利法人というところです。
営利法人というのは、株主という会社の所有者に利益を生みだすものです。それ以上のものでもないし、それ以下のものでもないとラジカルに考えたのが、株主利益の最大化=株主資本主義を唱えた人たちです。ライブドアのホリエモンもそういう方でした。これはこれであり得る考え方だと思います。
顧客のためにあるとか、従業員のためにあるとか、地域のためにあるとか、そんなのは嘘っぱちでしょ?という原理主義者でなくとも、会社の定款と会社法の定めるところに忠実で純粋に動いていけば、おのずとそうなります。
だから、本当はチケットを買って貢献してくれる人が実は営利法人としての会社には、一番うれしい存在なのです。
ところが、サポーターというのはややこしい。自分たちがクラブを支えていると勝手に思いこんでいる。
きっとアイドルのファンもそういう存在だと思うのです。その思い込みを、秋元康はうまく換金モデルにしてしまった。これは確かにうまいですね。本当にクラブチームがAKBのやり方を参考にすることもできそうです。
しかし、それでいいのか、と。
本筋から外れるかもしれませんが、かなりわかりやすいところでいうと・・・

アイドルのマーケティングを、サッカーみたいなスポーツエンターテイメントが参考にすべきという意見があるけれど、アイドルはたかだか4~5年で消費され切るということを前提にプロセス設計された「商品」だということは忘れちゃならない。 #fbless than a minute ago via TwitBird Favorite Retweet Reply


芸能エンターテインメントのプロダクト・ポートフォリオが残酷なことは、みなさんおわかりのことでしょう。
クラブチームは、おニャン子クラブ人気あったね、モー娘好きだったよね、Perfume流行ったね、というように、消費モデルになるわけにはいきません。Jリーグは百年構想ということらしいですし(笑)

点じゃなくて線で見ろ、さらに引いて面で見ろ。そういう見方をしないと、短期的で局所的な成功に右往左往するだけになってしまう。光通信、グッドウィルグループ、ライブドア、読売ヴェルディ、浦和レッズ。みんな、「成功の哲学」「他のサービスに活かす××の成功」というような書籍が出たましたね。less than a minute ago via web Favorite Retweet Reply


一時の成功に対して、しかも何年かで消費されることを前提とするマーケティング手法を、そのまま適用するのは自分はどうかと思ったりするわけです。
成功しているときを持ち上げて、それを称賛するなら、なんとでも出来るわけですよ。そして、これを見習え、と。でも、例えば、たかだかその成功の5年後にはどうなっているかわからないわけです。
さて、ここからややこしい話になっていきます。
P.コトラーは、「生命体でも民族でも国家でも、ましてや企業が永続的に繁栄することなどありえない」と喝破しました。
そのような巨視眼的なパースペクティブでなくとも、永遠の繁栄というのは、資本主義の原理の中にはありえないはずです。永遠に繁栄する企業があれば、シュンペーター風に考えると、資本主義が終わることになります。
では、永遠を唯一目指すことができる繁栄モデルというのもあるのでないか。
それは何かといえば、それは宗教とか民族とか共同体といった存在である「ネーション」の原理なのだと考えます。
唐突に聞こえるかもしれませんが、資本-国家-ネーションのモデルをうまく絡み合わせた組織体だけが、この時代に長期的に(永続的に)繁栄することができるモデルなのです。
ネーションという言葉を、わかりやすくするために、「ふるさと」とか「愛」とか「地域」とかに置換してみましょう。
資本(商品-貨幣-商品)も国家または行政(徴税-国家サービスの提供)も、交換原理をもっているわけですが、このネーションだけは、ややこしい交換原理をもっています。つまり、対にならない交換をすることです。一方的に与えるけれど、みかえりはない。見返りは、何か違うものでそれぞれ受け取る。
例えば親は子に見返りのない贈与を行い続けます。それは老齢の時の保護を見返りにしていることもあるでしょうが、それよりも、それは過去自分が親から受けた贈与を子供に対して与えることにより、未来に向けて交換を続けているということです。
非常にややこしい話ですね(笑)
この3つの交換原理の歯車をうまくかみあわたものが、その栄華を未来に向けて延長できるのではないかというのが、自分の基本認識です。
もちろん、だとしてもそれが永続的な繁栄を保証するものではない。その時々の意匠と仕掛けが必要なわけです。
そういう意味で、アイドルビジネスの錯視のトリックは、まあまあ参考になる話だとも思います。
ただ、やはり基本的には商品を取り扱うことの延長線上にあります。
バルサ成功の秘訣!として、ソシオ制度とか着目するのはいいと思います。
しかし、けど、あれは民族主義がベースにあって、初めて成り立つ非営利法人格です。
単純に新しい企業モデルとして受け取ることはできません。
形だけであれば、バルサのソシオ制度を日本に導入するのは簡単です。
日本のNPO法人や一般社団法人というのは、ソシオ制度とほとんど同じものです。それを導入すればいいだけの話です。
「地域スポーツクラブが目指す理想のマネジメント・ソシオ制度を学ぶ」谷塚哲著 から勉強させて頂きました)

けれど、会費拠出タイプのNPO法人にバルサがなったのかといえば、それは行政(フランコ政権)が何もしてくれないからだったから自主管理でやろうとしたのでしょう。ですが、根底にあるのは、迫害に近い状態で民族の矜持、つまりネーションの母体をつくりたかったに他なりません。
「クラブ」という言葉の原義は、会員が対等に義務と権利をわかちあう社交の地域コミュニティです。
ヨーロッパの「クラブ」チームは実際そのような原型をもっています。
日本ではモジュールとして地域とクラブという理念が導入されたために、キツネにつままれたようにその輸入思想をぎこちなく
皆で悩みながら使っているというところが現在です。
今、必要なのは、その輸入思想を日本の風土の中で独自の形で開花させることでないか。
そして、現在、日本の「サポーター」は紆余曲折を経て、時に千鳥足になったり、躓いたりしながらも、確実にそちらに向かっているのではないかということを、半分アジテーションの意味もこめて書いたのが、「フットボールサミット第三回」の自分の記事です。
確かにアイドルのマーケティング手法は参考になるでしょう。面白いと思います。
しかし、それだと結局は企業スポーツ・エンターテインメントビジネス・スターシステムとか、そういう面ばかりクローズアップされる気がして嫌なわけです。
同じフットボールサミットで、「サッカーは行政の理解が少ない」というようなことを語っている方がいらっしゃいました。
それは当たり前でしょう。だって、サッカーに思い入れがある人が、地域や行政の中や立法の立場の方(議員)に少ないということです。地域の誇りやコミュニケーションの中心として、サッカーは認められていないということです。足りないのは「愛」なんですよね。なんかJ-POPのリリックみたいな言い回しですが(笑)
ここから蛇足です。
ところで不思議に思うのは、行政を動かすために、サッカーの力で有権者の強みを発揮しようという、普通に当たり前の話が出てこないんでしょうかね。地方議会に議員を送り込むには、何票必要なんでしょうか。そして、チームのサポーターは何人いるのでしょうか。優勝して、数千万円の賞金を得てクラブハウスの改修費用とするのに、どれだけの公式戦の勝ち点が必要になるのでしょうか。選挙なら一日です(笑)
唯一、この考え方を実行しているクラブチームサポーターがいます。鹿島アントラーズです。
自分は簡単に書いてますが、これがどれだけ大変なことなのか、また果たしていい考え方なのかはわかりませんが、自分には当たり前の建築的な振る舞いに感じるのです。
ここから先は、さらにかなり蛇足です。
ややこしいのは、こういう言葉が適切かはわからないんですが、80年代ぐらいからポジティブで大きな物語は嘲られ、小さな趣味性が商品として物語化して取引されるようになってしまったことです。
もろちん、それはサッカーも映画もアイドルもおんなじなわけです。今や、商品の物語だけが説得力がある。
わたしたちは結局、そんなことを30年もやり続けてきたわけです。記号学も構造主義も、けっしてそれが本来の振る舞いでないはずなのに、ただ物語を解体するだけ解体してしまった。バラバラに解体された理念は焼け野原の瓦礫となり、残ったのは商品をめぐる小さな物語の変奏です。
商品を軽やかに消費することが美徳となった。それ以上を求めることはカッコ悪いことになったのです。
はたして、それでいいのか。
ポストモダンの夕暮れに、親がいない子どもたちは、まだ暗い公園で遊んでいる。東なんとかとかいう思想家とかも、自分から言わせるとそんな感じですよね。まだやってんの?ということです。
もう一度建築すること。臆面もなく同じことをやるか、違う知恵を使うか、そこに注意はしよう。
いたずらに、資本とか国家(行政)とかを否定せずに、真正面から受け止めて、物語を構築すること。
失われた「郷土」とか「共同体」とか「ふるさと」とか「愛」とかを、積極的にしかも照れずに対峙してみること。
「グローカル」という言葉があります。
これは「グローバル」と「ローカル」をあわせた言葉で、地域性と切り離せないものが世界商品として機能することを指しています。欧州のクラブチームは、すなわちこの「グローカル」の典型例です。
そうすると、目指すところはそんなところになるのではないでしょうか。
以上、小難しい電波話でスミマセン。この電波は「フットボールサミット第三回」でも垂れ流しております。
ご興味があればお読みくださいませ。

まあ、今回の話は、本来はAKBの総選挙を使ったネタとして消化すべき話に、勝手に自分が食いついているというだけの話なんですけれど(笑)

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