「サラエボ、希望の街角」/不寛容と偏見のどや顔はどっちだ?

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◇「サラエボ、希望の街角」公式サイト
サラエボの街は、セルビア正教とカトリックとムスリム(イスラム教)の宗教と文化が融合して彩られた古都。
この街が中心となって第二次世界大戦後最大の内戦といわれるボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が終わってから15年目。戦火の影響からも復興した街で、暗い記憶と肉親や友人の死を抱えながらも、仲むつまじく同棲する、空港に勤務するスチュワーデスと空港管制官のムスリムのカップルがいた。
スチュワーデスの女の悩みといえば、夫の飲酒癖と自分の不妊。そのため、人工授精での出産を決断するのだが、その頃ちょうど夫が勤務中の飲酒を咎められ停職処分となってしまう。
職を探さなければならない男の前に現れたのは、ムスリムの原理主義者となっていた内戦の時の戦友だった。その男から、原理主義のキャンプでの仕事を紹介される男。次第にその教義と生活に魅せられていき、女の心は離れていく。
そして、ムスリムでありながら世俗的な生活に慣れていた女は、暗い戦争の記憶を呼び起こしていき男と別れる決心をするのだが、そのときに人工授精ではなく、子供が授かったことを知る。
そんなあらすじがこの映画です。
イスラム教というのは、本当に日本では全くといっていいほど理解されていない宗教文化です。イスラム教徒が一番多い国はインドネシア。数百年ものあいだイスラム教のカリフ(宗教的トップ)がいた国はトルコ。この両方とも、いわゆる世俗主義の国。イランであっても、戦後のパーレビ革命までは世俗主義の国でした。東欧やバルカン半島のムスリムの人たちもそうなわけです。
イスラム原理主義のようなものが実権を握って国を動かすようになったのは、トルコの覇権が崩れて、そこに現れた欧州の傀儡政権のイスラム教の国からのことで、さらに、先祖がえり的なアナクロニズムを逆に人々の求心力にした「原理主義」が出てきたのは、むしろ第二次世界大戦後のことです。
「宗教は民衆のアヘンである」とマルクスが近代合理主義的に宣告したときに、実はその裏側には、宗教に走らざるを得ない民衆の現実の悲惨という認識がありました。
宗教を解消するには、その現実の悲惨を解決しなければならないということです。
イスラム原理主義の跋扈については、彼らの現実の悲惨(特に経済的貧富の差)や、行き場所のない孤独感などが背景にあることは間違いないと思う。
このような問題に対して、宗教は数千年もの期間、説得力のある回答を与えてきたわけであり、それをいたずらに否定したり、退けてしまうことは本来私たちには出来ないはずなのだ。
少なくとも、寛容と理解をもって宗教問題には当たっていかなければ、いたずらに摩擦を起こしていくだけではないか。
民族問題でも同じはずだ。ナショナリズムは宗教と同じ振る舞いをして、時には友愛の絆となることもあるし、時には不寛容と偏見の温床になる。
だからといって、これを一概に否定してしまうのは、却って事態を深刻にしてしまう。
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この映画では、イスラム原理主義に走った恋人を、自立した女性が否定していく姿が描かれている。しかし、本来ならば、それはイスラム原理主義に対する不寛容と偏見なのではないのだろうか。
ラストシーン、せっかくの子供を堕胎して、きっぱりと別れたラストシーン。
ああ、これが「どや顔」というヤツですか・・・と思ったりしたわけです。
イスラム原理主義にある分離主義的な思想があることを前提にしているのでしょうが、それは映画の中では触れられていないため、単にテロリストを養成しているというような噂レベルの話のみが極めて表面的に語られているだけです。
そのため、これはむしろ新しい不寛容を生み出しているのではないかと、自分は裏読みしてしまうわけです。決定打となったのは、あのどや顔ラストシーン。
主人公がスチュワーデスや人工授精を選択するような現代的な女性というところもポイントでしょうか。
ムスリムの教義は何よりも現代の女性には全く受け入れらける余地がないほど古びてしまっている。
ただ、このへんのムスリムの文化圏の人たちの温度感というのが実はよくわからないのも事実です。
トルコ系ドイツ人のファティ・アキン監督の「そして、私たちは愛に帰る」では、世俗的トルコ人移民とやはり原理主義的傾向のトルコ移民との対立が描かれていました。悪者はやっぱり世俗的傾向に敵意をむける原理主義者なんですよね。これ、映画そのままの役どころで信じてしまっていいものなのか。
もともとイスラム教はユニバーサルな理念をもち、他の宗教に対しても寛容であった宗教でした。そもそも、ユダヤ教とキリスト教の教義をベースにつくられた宗教でもあるわけですから、当たり前の話です。原理主義者は異教徒を迫害することなんていうのは考えていません。ただ、彼らは自分達のテリトリーを犯すものとは徹底的に闘うと言っているだけです。これが、本当に勘違いされているところです。
もちろん、自分はイスラムのテロリストを擁護しようとしているわけではありません。が、不寛容と偏見が連鎖していっても、どうしようもないということだけ強調したいだけで、この映画を観て、改めて思った次第です。ただ、こういう映画が出来るほど、ムスリムの人たちの間でも原理主義的傾向に危機感が出ているということはよくわかりました。
近年の面白いイラン映画って、みんなこれがテーマだったりしますしね。

映画としては悪くありません。勉強になりました。
サクサクと素材を調理したお手並みは見事!
FWF評価:☆☆☆★★

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